り、道路の両側はひびわれている。小さくても滝が流れているということに、何かほっとさせられるものがある。
滝を見たあと、海岸から少し奥の標子林の中に入った。民家が離れたり、くっついたりしている集落があり、バスケットボールのコートを備える学校があった。放課後らしく、教師のすすめもあって入っだ教室で、生徒の学校生活のことについて、いろいろと話を聞いた。現在生徒数は全部で十九人である。
村の分教場をでて、船に帰ろうと思って貯木場にきたが、船への便がないので近くの小屋で待つことにした。
近くで作っている筏の向こうには、積荷役をしている本船の姿が見える。緑の濃い椰子の林に囲まれた清の入口には小さな島があり、湾の西側に見える浅瀬には折れかえる白い波がある。裸で時折海に飛び込んだりしながら、筏を組んでいる人達にも活気めいたものを感ずる。
積荷役も進み出港が近くなったころ、私が分教場で話した教師が生徒を五名ほど連れてカヌーでやってきた。二か月に一回位しか船が来ないので、船が入港すると生徒にせがまれて船を見に来るとのことである。裸足で船の中をはしりまわっている。
木材を積んでいる状況を見たり、船橋の航海計器などはちらっと見るだけである。娯楽の少ない島では、リクレェーション気分で船の中で遊んでいるように思われる。
出港の前日に上陸して砂浜を歩いているとき、波に打ち上げられている椰子の実が目にとまった。長い年月の間に外皮がとれて、中の固い殼だけになっている。そのうちの一つを船に持って帰った。

パラオ島のコロール港で、日本の港揚げのコンテナーを四個砲口の上に積んでいるので、それを移動させながらの積荷であるから、なかなか思うようにいかない。傭船者にラバウルにコンテナー仮陸揚げするように依頼したが認められなかった。
本船は往路は雑貨、復路はコプラ(椰子の果肉)とコンテナー積みとして、五カ月ほど前に竣工したばかりで、二航海目の復航である。ポナペ港を出てから、復航の木材標みの指令を受けてから、まさしく準備に大わらわの毎日であった。
ともあれ、木材積みに際していろいろなトラブルもあったが、種荷役も終って、九月十七日ワーリー港を出て揚地の大船渡港に向かった。航海中、拾った椰子の実の殼をサンドペーパーで磨き、白いペイントで書いた。
名も知らぬ遠き島より
流れ寄る椰子の実一つ
新体詩に近代的叙情の魂をはじめて表現しえた島崎藤村の詩の一部。船室の机上の一隅に置いた。
その後、下船するごろになって何となく椰子の実に愛着を感じていたので、下船帰宅時の荷物の中にいれて送った。
現在、私の机上の一隅にある椰子の実を見ていると、さまざまな当時の状況を思い出す。この椰子の実を拾った時に、近くにいた少年が十人ほど集まってきた。上半身は裸で、足元は裸足で、古い半ズボンという粗末な身なりをしていた。
しかし、屈託のない明るい笑顔で言葉をかけてきた表情は、どこから生まれたものであろうかと思ったりする。
今はいい青年に成長しているはずだが、どうしているだろうかと、いろいろと想像することがある。(筆者紹介23ページ)
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